大阪理容業界の歴史~明治中頃から大正中頃まで

理容師試験の前身である理髪試験を全国にさきがけて実施した武田八百吉氏は、明治21年、岡山市から道頓堀・大黒橋詰の大村音次郎氏の店に弟子入りした。

 

武田氏は5年間修業しその後、東京で政治活動や神戸で貿易商などを経て明治41年天王寺区上汐町に開業して理容業に専念するようになった。関西独特の直か鋏技法を考案した下司重氏は、高知の人で修行後、東京で腕をあげ、北浜の中野常吉氏のモーラ館で明治41年頃から働くようになった。

 

下司氏は明治16年生れ、モーラ館は大阪で最も進歩的な店として知られ、明治末年には下司重、田原又一、長谷川三二氏という人達が三羽烏といわれて活躍していた。

下司氏は 直か鋏(立て鋏)を東京時代に考案したが、大阪に来てから、その普及につとめ関西理髪技共会を興した人である。

 

この当時の理容師は木綿の着物に角帯を 締めて襷がけ、前掛け下駄履き姿であったが、北浜辺の助手は袖唐桟の粋な姿であった。当時の技術は、北浜と南の一角の他はまだまだきれいにぼかした技術ができず、俗に「バケツ」と呼ばれる刈り方が多かった。

 

京都の人で平馬魁亮氏(東京の大日本美髪会講師で後に神戸、 大阪に転じ、後年、美容講習所を開く)という人が平馬講習と称して東京技術の講習会を開いた。ここで顔面仕上げなどが指導されるようになり、下司氏もまた 各組合に招かれて直か鋏を指導して廻った。

明治35年に組合を組織

- 大正7年わが国初の試験制 -

明治34年、産業組合法の成立によって理髪営業取締規則がつくられ、翌35年、警察によって組織命令が出された。組合は各警察署毎につくられたが離散集合が相つぎ、強制加入ながらも業者間のトラブルが絶えなかった。 大正6年6月に大阪府理髪営業取締組合連合会の総合が開かれた折、その総会で

 

1,営業時間の短縮 

2,理髪検査試験の実施 

3,理髪強制組合の促進

 

という議案が審議された。試験の実施については、サービス過剰や低料金による混乱が続いていたので、それを健全化する方法として武田八百吉氏らによって府議会に陳情運動が再三行われた。

 

大正7年12月23日、府条例を改正してわが国で始めて試験制度を実施することになり、強制加入の組合も認められた。この試験制で既得権を奪われるのではないかと、急進派の 業者が武田氏を襲って前身に打撲を負わせたこともあった。連合会では試験の実施に備えて受験準備の講習会を各地で開いた。

第1回の試験が実施されると、大阪市制が改革されたのを機会に、府下を一丸とする連合会をつくることになって大正8年7月に名実共に整った大阪府理髪営業取締組合連合会が結成された。

組合では、この試験に備えて講習所を設けた。天王寺区上汐町でも講習会を開いていた が、これを恒久化して大阪高等整容美術学校の前身である大阪理髪専修学校開校の基礎がつくられた。