大阪理容業界の歴史~大正中頃から昭和初期まで

 大正8年、連合会の初代会長になっていた武田八百吉氏は、大正11年の役員改選で船場の取締であった水沼六蔵氏と交代した。大正10年に大阪理髪専修学校が本格的な理髪学校として、西区靱町医師会館のなかに創設された。大正12年には、結髪部の要請で、結髪部を設けた。大正8年に大阪で試験が実施されると、兵庫や京都をはじめ各地から試験の模様を調査にくるようになって、近畿地方より試験制度がしだいに全国に拡がって行った。なかでも関西理髪技共会が下司重氏や西村源三郎氏によって大正3年につくられ、間もなく若い礼埜義造氏らによって技術指導が行われた。大正末期になると13組合が集まり広田嘉善氏を会長にして二葉会をつくった。その他、堀切七蔵氏らによる大阪理髪技友会ができたほか、大阪理髪共進会、大阪理髪三七会、大阪理髪士会、理髪向上会、大阪技栄会、大阪理髪技誠会、東淀川の豊美会など、鋏の軽量化と共に、技術研究が盛んになった。

大阪でいち早くアイロン技術を手 掛けたのは、中央区博労町中橋筋に店舗を設けていた野原音五郎氏であるという。後に此花区に移ったが、大正12年頃より東京の斉藤隆一氏らと交ってアイロン技術を習得していた。横浜でいち早く発達した電気アイロンを大正13年に初めて大阪で使用、その販売も行うようになった。

大阪で全国理髪師大会開く


 再び連合会々長になった武田八百吉氏の提唱によって、大正15年4月20~21の両日、北区中之島公会堂で第3回全国理髪師大会が開かれた。この大会は兵庫・岐阜・広島・大阪など各組合の人達で、場内は数百人の業者で埋まった。大会の目的は、内務省令による「理髪 営業取締規則及び全国統一試験制度の実施」であったが、地方の業者は、梅田の安藤旅館、難波の佐藤旅館など5つの旅館に分宿して大会に臨んだ。

競技大会始まる 丸刈りや結髪の競技も

 昭和に改まると各地で競技会が開かれるようになった。組合は理容、美容が合同していたので、当時の競技会は、カッティングのほかに日本髪の競技などもあっ て華やかな色彩で賑わった。理容競技は刈上げ、丸刈、顔剃りなどがあった。競技会のルールもまだきまっていなかったので、採点方法で選手と審査員の間でし ばしばトラブルがあった。

大正15年、関西理髪技共会の近井市松氏を会長に、全大阪理髪青年連盟が発足した。同会は玉造理髪青年会を設立した岸作太郎氏を副会長に市内各研究団体の奥村三郎 氏らの協力によって注目を浴びるようになった。同連盟の活動は大阪ばかりでなく、兵庫県の高岸高一、宮内宇平氏らにも働きかけ、大阪・兵庫・京都・岡山・ 徳島・和歌山・三重・広島などによって、大日本理髪青年連盟の結成へと発展して行った。これは昭和2年の話である。大阪青年連盟の講師会ができたのは昭和7年3月、この講習会は全大阪理髪講師会といったが、昭和7年の講師会々長には原田又一氏がなり、講師長に大高一郎氏、監事に金田善兵衛、川瀬宇平、佐竹宏介、それに若手の白方松雄、中川鹿次郎氏らが参加した。

全大阪理髪青年連盟は府下の有力な技術団体が参加してつくられたが、その中心は中央区(東区)瓦町5丁目に事務所を設けた関西理髪技共会であった。

技共会は、直か鋏の下司重氏が代表で、小川恵三、近井市松氏が副会長となって、天満、川口、船場、今福、曾 根崎、網島、十三橋、築港、柴島などに支部があって、最も活発であった。

福島の店舗開設で混乱する

 連合会本部と大阪理髪専修学校は、天王寺区小橋東之町にあった。昭和5年池田重吉氏が会長に就任した翌年10月、福島地区で俗にホワイト事件と呼ばれる紛争があった。これは、距離制限が許された当時、隣接して開業しようとした店舗に、夜陰に乗じて隣接の業者が池 田会長を先頭に投石などした事件で、池田会長ほか約20人が拘置されて調べられたので、天王寺の小島千代多氏が会長代理となって対応した。

 昭和8年、小島千代多氏を会長に、仲山、山村、市川の3氏が副会長に選出されて連合会はスタートした。翌9年5月には、広田嘉善氏を会長に、井手藤一、村田金次郎、藤井常蔵、川口信次郎氏らが幹部となって発足した。この頃の大阪理髪専修学校は、組合のなかに大阪理髪教育会を設け運営にあたっていた。中津、長野、富田林、古市、黒山、柏原の 14組合が、組分員1人1ヶ月5銭の負担金を出して維持費にあてた。昭和9年春、学校の増築工事の完成と共に組合に全て移管された。この頃になると、競技会が一層華やかに行われるようになった。会場は中之島公会堂や実業会館で、入口には各組合の団体旗が色どり毎日新聞や関西新聞など が後援して、場内は満員であった。

 また試験制度の生みの親といわれた武田八百吉氏は昭和7年9月に没した。同氏を顕影する碑が天王寺六万体町の吉祥寺に広田氏を建立委員会にして2メートル余の碑が完成した。(昭和20年の戦災で焼損し、碑はなくなったがその後、小さな記念碑がつくられている)

内務省の取締規則案に反対

 試験制の実施は大阪がさきがけしたが、大阪では内務省による統一した取締規則と試験を主張して、全国組織の結成を呼びかけていた。昭和10年9月、大日本理容連盟の結成を6大都市の組合に呼びかけ、有馬温泉で会合が開かれた。また、内務省案の内容が表面化してくると、その内容が組織を破壊するも のであると昭和11年7月、大阪の組合で緊急役員大会が開催された。

この大会には約700人が出席したが、

 

1,徒弟制度の存続

2,強制組合を主張して、直ちに全国大会の召集を要求して気勢をあげた。

 

大阪の組合は更に他府県組合に呼びかけて、同月の25~26日の両日、中之島公会堂に3府21県の組合が参加して、内務省案に修正を要求する決起大会を大阪の小島氏が委員長となって開いた。11~12年頃まで内務省案に反対する運動が進められた。