大阪理容業界の歴史~明治初期から中頃まで

川口居留地が大阪の理容の発祥地

大阪で最も早く西欧の技術を覚えて理容店を出したのは、昭和の初期、天王寺区上本町 9 丁目に健在であった石川伊三郎氏だという。石川氏は後年になって中央区(南区)鰻谷南詰に店を出していたが、西欧の理容技術を覚えたのは明治初年22~23才のころ西区川口町の川口外人居留地英吉利28番の外人屋敷であった。

石川氏は髪結職で、天保末年生まれ。

 

また小笠原熊五郎氏は東区大渉橋西詰南側に、中央区(東区)本町の東詰に「床玉」という髪結床 があった。明治初年に最も早く理容店に転向したのはこの3軒だという。江戸時代から髪結床は一店一株の「株式」になっていて、新株を手に入れることが難しく、大阪で開業していた髪結床は僅かに200~300軒程度と推定されている。

大阪の断髪は造幣局から

 石川氏は、西欧技術が必ず普及することを予見して、髪結床の人達に新技術を奨励し明治初年、理容組合を造ってその取締りとなった。

 

大阪で最も早く大勢の人達が散髪をしたのは明治4年で、北区川崎町が川崎村と呼ばれていた頃、そこに近代的な造幣局ができた折、その開局式に職員全員が断髪して人々を驚かせた。

千日前付近が賑わう

 明治の初期、梅田周辺は田圃の続く部落で、まだ家もまばらで、扇町プール辺は監獄があってまことにぶっそうなところ。南のナンバ周辺も一面のネギ畑でナ ンバ球場附近に小さな茶店が1~2軒あったという。また天王寺参りの人達で、天王寺、恵美須町から日本橋3丁目に至る通りは賑わった。

 

明治18年頃、西江戸堀に開店した生川荘三氏は三重の人で、東京で修業してすっかり理容技術を覚えて近所の業者を驚かせた。また千日前付近が繁華街とそて賑わいを見せ始めた頃、近藤房吉氏が「床房」という店を出していた。

近藤氏は業界の最先端を行く進歩的な人で、足でペダルを踏むとブラシが回転して雲脂をとる足踏雲脂 器を輸入して通行く人を驚かせ、大繁昌した。これが反面、南一帯の同業者の一大脅威となって大騒ぎ、組合の臨時総会まで開かれる騒ぎであったという。